◇◇◇ 東北支部 会員便り ◇◇◇

みちのく 『絆』 通信
2012年1月号


 
   山崎 晃   
< 『絆』 社会を考える >
母がまだ元気なころだった。
俗に云う 「かつぎ屋」さん (昭和20年代から30年代の初期まで、自給自足の時代に 農家や農村でとれた新鮮な物を
背負って街場まで売りに来ていた行商の人達) が私の家に立ち寄り、生きのいい新鮮な魚などを、
狭い玄関先や庭先でお披露目すると 「閖上のオバちゃんが来たよ」 という母の一声で隣近所のオバちゃん達が集まり、
その日の夜の献立の品定めをする光景を良く目の当たりにしたものである。
 
1945年を境に、戦前戦後の私たち日本人の生活は 「苦しくて貧しい生活」 の様相を呈していたように思われがちだが、
実はあの時ほど心の豊かさを感じていた時代はこれまでにあったろうか。
これは単なる郷愁ではなく 『絆』 を考えるときの原点となるいわばスタート地点であったように思われる。
 
1980年代まで国際協力という名のもとに歩んでいた日本の社会に多文化共生という、しかつめらしい社会が
入ってきたことに異論はないが、本来の 『絆』 とは 「向こう三軒両隣」 的なコミュニケーションが根底になければならないし、
それが又、社会への橋渡しになるのではないだろうか。
現在の少子高齢化を考えた時、労働力不足を外国人に頼らなければならない。その場合、
残念ながらその制度の難しさや、日本語学習等の不足による 『絆』 社会への道のりが退いているように思われる。
 
戦後教育の中で 知育・徳育 といった技術面での進歩には目を見張るものがあるが、
残念ながら 感謝の気持ちを表す 徳育 の面では非常に寂しいものがある。
個人的には、それまで大切にしていた 着物や嫁入り道具類 を捌いてまで、子供の為の糧に代えていた母親の姿を
思い浮かべるにつけ涙が頬を伝うが、一方で何故かそのことが楽しい思い出となる。
家族愛・隣人愛・親戚や知人の繋がり等の濃厚なコミュニケーションがあったからに他ならない。
 
戦後の社会を図太く生きてきた母の優しい言葉をもう一度聞いてみたいが、意識のない入院生活を6年続けており、
まもなく あの世に旅立つことを考えると寂しくなる。




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